小浜支部

明通寺(真言宗御室派)

JR「小浜駅」下車 のりかえ
JRバス池ノ河内線「明通寺」下車
徒歩 300メートル 5分
小浜駅から7.5キロ

松永川の上流カジカの声する幽谷と老杉茂る木立の中に裏日本随一の国宝三重塔がスックリと立つ。 そこに棡(ゆづり)の巨樹に憩う老仙の姿を見るのは幻覚であろうか。
苔むす岩の根を澄んだ水が洗う情緒は忘れ難い。

大同元年(806)坂上田村麻呂公の創建
  • 本堂(国宝) 正嘉2年(1258)の建立
    単層入母屋造桧皮葺
    鎌倉時代
  • 三重塔(国宝) 文永7年(1270)建立
    三間三重塔婆総高22.12メートル
    建坪17.46平方メートル桧皮葺
    鎌倉時代
  • 木造薬師如来坐像(重文) 像高144.5センチ 平安後期
  • 木造降三世明王立像(重文) 像高252.4センチ 平安後期
  • 木造深沙大将立像(重文) 像高256.6センチ 平安後期
  • 木造不動明王立像(重文) 像高161.8センチ 平安後期
  • カヤの木(市指定天然記念物) 太さ3.2メートル 樹齢約500年

 山号は創建当初棡木で本尊薬師如来を彫ったところから棡山という。真言宗御室派。 
1185年(元暦2)2月の明通寺住僧観西申状案によれば、桓武天皇の時、征夷大
将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して創建したという。
 1374年(応安7)の縁起によれば、今の国宝の本堂は、1258年(正嘉2)
4月10日に、三重塔は1270年(文永7)10月13日に中興の僧頼禅が棟上げした。
その他鎮守堂、大鳥居、湯屋など24坊があり、1265年(文永2)の若狭国惣田数
帳写によれば「棡寺壱町八反」の寺領があった。
 1310年(延慶3)には若狭国守護代北山永忍と税所代海部忠氏に異国降伏の祈祷を
命じられ、1314年(正和3)4月8日には北条貞時の祖父母の菩提のために貞顕が
法華経8巻を施入している。
 1333年(元弘3)には後醍醐天皇側に組して兵糧米を献上し、朝敵退散の祈祷をし
ている。その後当寺衆徒らは、松永保地頭惟宗氏に属して戦勝祈祷を繰り返し、1336
年(建武3)8月28日には若狭国内能登野の内乱において、寺僧の但馬房快禅、伊予房
頼秀、行人常行ら3人が討ち死にするなど、南北朝期の争乱にかかわりをもった。
同時に守護・地頭による戦勝祈祷を繰り返し行うなど、中興の僧頼禅は武家と密接な関係 を保ち寺領を拡大し、伽藍整備を行っていった。 鎌倉・室町時代を通じて幕府、守護、地頭の崇敬を受けた当時は、守護が武田氏になって からも寺領を安堵され、歴代守護の祈願寺として隆盛を極め、近在の土豪百姓らによる先祖 供養のための如法経料足寄進札などで信仰を集めた。 1528年(大永8)の寺領目録によると8町1反の寺領があり、1449年(文安6) の東寺修造奉加入数注進状によれば、僧20人が銭1貫500文を寄進している。近世藩主 酒井家も薬師灯明料として高3石2升8合寄進し、山林諸役を免ぜられた。 本尊薬師如来・深沙大将・降三世明王・不動明王の4体はいずれも重要文化財。 寄進札 (杉本泰俊)

【本堂】 
正面5間(14.72m)、側面6間(14.87m)、入母屋造桧皮葺の建物。
国宝指定(1953年11月14日)。1913年(大正2)解体修理。
1258年(正嘉2)建立の県内最古の木造建築。
3間×2間の正堂の前に3間×2間の礼堂を付し、四周に1間の庇を廻らす構成を取る仏堂である。
長押と頭貫で軸部を固め、出組斗きょうで軒を支える。中備は正面を本かえる股、他は間斗束とする等全体が純粋な和様でまとめられている。
なお、頭貫鼻の繰形は密教系仏堂における大仏様の影響を受けた細部様式の初例として注目される。鎌倉時代における和様仏堂としてわが国を代表する建築として知られる。
(吉岡泰英)

【三重塔】
初層平面方三間(4.18m)、高さ約22m、桧皮葺木造三重塔婆。
国宝指定(1953年11月14日)。1957年(昭和32)解体修理。1270年(文永7)建立。
初重中央間を10支、脇間を8支とし、上層へは中央間を2支、脇間を1支ずつ減じる、和様でよくまとまった優美な塔として知られる。
(吉岡泰英)

【薬師如来坐像】
木造、1躯、重要文化財(1941年11月6日)、平安時代、像高144.5p。
当寺の本尊で右手を施無畏に、左手を与願印に薬壷をうけ、偏袒右肩の衲衣を着け蓮華坐上に結跏趺坐をなす像で、頭躰の躯幹部を桧の1材から木取りし、首下で頭躰を割放す。
頭部は前後に躰部も前後に割矧ぐ。しかし躰部はさらに正中線で左右に割矧ぐもので、4材竪矧ぎという珍しい手法がとられている。内刳りを施す。
肉髻高く肩幅も広く、肉取りもやや厚みのあるもので、古様をとどめているが、刀法は平安時代後期のもので、像容も穏やかでありその特色をよく示している。
(野村英一)

【降三世明王立像】
木造、1躯、重要文化財(1941年11月6日)、平安時代、像高252.5p。
降三世明王像は修法の本尊として用いられた画像に比し、その遺例は極めて少なく、この寺の深沙大将像と共に国内では希有の遺例である。
3面8臂の像で、焔髪をなびかせ真面の左右に脇面をつけ、3面は各3眼をもつ。 忿怒の相のもとに降三世印を結び、左足で大自在天を、右足で烏摩妃を踏まえて立つ。
像は躰幹部を1材より彫出し、背刳りを施し背板をあてる。大自在天と烏摩妃は横1材より彫出し、 本躰はその背上にほぞを立てる。 平安後期の像であるために、刀法は肉取りも穏やかであり、彫りも比較的浅く平明で、 密教仏特有の難解な感じはないが、堂々たる大像であり、3面8臂の異様なその像容は、 密教仏らしい迫力をもって迫るものがある。
(野村英一)

【深沙大将立像】 
木造、1躯、重要文化財(1941年11月6日)、平安時代、像高256.6p。
降三世明王像と共に本尊薬師如来像の脇侍として祀られている。頭上に焔髪を逆立て、正面に髑髏をいただき、左手に蛇を掴み右手に戟を執り、腹前に小児の顔をつけ、条帛、短裙をまとって立つ、すさまじい姿の像である。
桧の1材より彫出し背刳りを施し施板をあてる。足衲をもって岩座上に立つ。
大般若経の守護神として大般若十六善神と共に、描かれることは多いが、本造のように造立されることは希で、この像は全国的のも希有の遺例である。
平安時代後期の像であるために刀法は穏やかであるが、丈六の大像であり、すさまじい異様な形相は像容に迫力があり、密教仏らしい神秘さを堂内に漂わせている。
(野村英一)

【不動明王立像】 
木造、1躯、重要文化財(1941年11月6日)、平安時代、像高161.8p。
彫りの深い卷髪より左肩に弁髪を垂れ、目はわずかに天地眼とし、右手に宝剣を執って腰に構え、左手を垂下して羂索を執り、条帛、短裙をまとい、岩座上に直立する動きの少ない穏やかな姿勢の像である。
頭躰の躰幹部を1材より彫出し、前後に割矧ぎ内刳りを施す。平安後期の像で、刀法も表出もその特色をよく示している。
この像は現在羽賀寺にある千手観音像を本尊とし、同寺の毘沙門天と共に、その脇侍として、もと小浜の千種(現竹原)にあった松林寺に祀られていた像である。
千手観音像の胎内には「長寛三年きのととり卯月六日云々」の造立銘があり、毘沙門天にも「治承二年七月廿四日」の墨書銘が胎内にあるので、その前後に造立されたものとみられる。
(野村英一)


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